Japan Printing House
代表 田中 政夫さん
– それではまず、いつどのような経緯でカンボジアに来られたのかをお聞かせいただけますか?
1991年の11月に現在のシャンティ国際ボランティア会、その当時の曹洞宗ボランティア会から印刷の専門家としてカンボジアに派遣されて来ました。カンボジアに印刷の職業訓練校を作り教育することが派遣の目的でした。しかし赴任してから最初の半年ほどはまだ訓練校が完成していなかったので、工事の進み具合を確認したり教科書を作成して過ごしました。訓練校は翌年6月15日に開校し、最初の生徒はプノンペン市教育委員会が集めた25名でした。教育の内容としては、単純に訓練だけを積ませるというよりは、オン・ザ・ジョブ・システムを採用し実務をこなしながらの訓練でした。
当時の状況としては、民間に印刷所はなく、各省庁が発行する印刷物はそれぞれが所有する型式の古い印刷機で印刷していたのですが、それもほとんど稼動しているものはなかったです。こういった状況もあり開校して間もなく、UNTACから選挙告知チラシや選挙に関する様々な印刷物の発注が入り、24時間3交代で、多いときは月の売り上げが1,000万を越える時も有り、実務教材に困ることはありませんでした。
– 訓練校が必要とされていたということはやはり当時の印刷技術はあまり高くなかったのでしょうか?
そうですね。赴任当時のカンボジアはまだ活版印刷が細々と稼働している状況でした。なので私たちの持ち込んだ機材が当時のカンボジアでは唯一稼動していたオフセット印刷機でした。その当時日本ではすでに当たり前でしたが、カラー印刷にすら周りの印刷関係者はびっくりしていました。
– 田中さんが担当された訓練校の生徒さんとは今でも連絡を取り合うことはありますか?
はい、もうあれから20年以上経ちますのでそれほど頻繁に連絡を取り合っているというわけではありませんが、未だに仏教の行事や慶弔の式典がある際などに当時の生徒達と顔を合わせたり連絡を取ることがあります。彼らのうちの多くがプノンペンで印刷所を経営していますので、今でも印刷業界の人間はたいてい把握していると思います。
– 赴任されたのが1991年ということは、UNTACの活動が始まるよりも前ということになりますね。その当時の治安は勿論今とは比べ物にならないほど悪かったと思いますが、田中さんご自身が経験された、今では考えられないようなエピソードはありますか?
当時は夜間になるとそこらじゅうで銃声が鳴り響いていましたので、今のように自由に外出できるような状況ではありませんでした。まだマーケットに拳銃が売られていた時代で、発砲事件の数が多すぎて、その一つ一つが一々ニュースにならないほどでした。
ある時スタッフと地元の食堂に行ったとき、隣りのテーブルに座っていた2人が喧嘩になり、そのうちの1人が威嚇の意味をこめてなのか壁に向かって銃を撃ち始めたこともありました。その反面、当時はまだ今のように車がたくさん走っていなかったので、交通事故は少なかったです。トゥクトゥクが走り始めたのも10年ほど前で、それ以前はシクロが一般的でした。
– 職業訓練校での職務を満了された後、Japan Printing Houseを始められ現在に至るまで27年間カンボジアで生活されているわけですが、何か印刷と並行して取り組まれてきたことはありますか?
私自身の趣味の範疇ではありますが、20年ほど前に創設され現在まで続く「プノンペン麻雀同好会」の活動はその当時から今までずっと続いています。元々は大手ゼネコン事務所の一室で行なわれていたものが、場所を転々とした後、現在は私が印刷業と並行して経営している飲食店「とりてつ」の2階部分で活動を行なっています。今後はより幅広い層の方々に麻雀の面白さを伝えていけたらなと思っています。