高校卒業資格試験は今年も厳しい監視のもとに実施される
高校卒業資格試験が8月24日から3日間実施されるが、受験生には厳しい現実となるかもしれない。昨年から厳格化された管理体制を今年も続行すると、教育省が発表したからだ。カンボジアの高校卒業資格試験といえば、試験官の買収に始まりあらゆる不正行為が行われるような無法地帯だった。
昨年新たに就任したホン・チュナロン教育大臣は、フン・セン首相の信任の厚さを後ろ盾に、高校卒業資格試験の不正撤廃の大号令を発した。ACU(アンチコラプションユニット)と警察当局の協力を得て行われた試験はそれまでの不正を一掃し、全ての通信機器の持ち込み禁止の他、試験会場周辺に規制線を張って出入りを監視、付近の印刷所には試験期間中閉店するよう通達を出した。その結果、受験者約9万人のうち合格者は僅か25%の約2万3千人にとどまり、教育省は急遽 不合格者救済のための再試験を実施した。しかし、そのための補習では教員が追加手当を要求し、当の受験者も数ヶ月の補習で合格できるわけがないと諦めムードが漂った。実際、再試験は本試験よりも合格率が悪く、その実施を疑問視する声も聞かれた。
卒業試験自体のレベルは特別高くもなく、原因は受験者各個人の初等教育からの積み重ねが全くない事だと言える。昨年、総合評価A評価で合格した僅か11人の学生のうち、ほとんどが地方で学ぶ苦学生だった。彼らは私塾に行かず、家事を手伝いながらも予習復習を怠らなかった。個人そして個々のコミュニティーの教育に対する取り組みが、最終的に大きな差として現れたのだ。
このような事態を受けて、与野党でも様々な動きがあった。フン・セン首相は、A評価合格者に大学の奨学金等の幾つかの贈呈品を送った。一方で、多くの不合格者に対しては「受験者にとっては高い壁となってしまった」と述べ、小学校低学年からの抜本的な教育改革が必要で、その上で資格試験を行う事に意味があると説明した。野党救国党は、教育分野担当の国民議会第7委員会(ヤーン・パンニャルット委員長)を利用してホン・チュナロン大臣を代表質問に召喚。試験結果に一定の評価を示しながらも、今後の教育改革の流れや、再試験実施の是非に関して大臣から直接の回答を求めた。
社会の声もやはり賛否両論で、資格試験のみが特別に厳しい現状に疑問を示す意見も多い。昨年の課題である学校教育全体の改善がほとんど行われていないからだ。わずか1年で結果を出す事は不可能に近いが、教育大臣始め、政府が教育構造全体にメスを入れるまでには至っていない事が議論されている。
不正黙認・学歴重視の社会構造
卒業資格試験で今まで多くの不正が半ば黙認されてきたのは、全ての関係者が己の短期的な利益を優先したからだ。受験者は卒業資格のためなら多少の金銭的犠牲は仕方がなく、合否に責任を持たない試験官側も金銭的利益をできるだけ多く得たい、というお互いの利害が一致していた。このような不正行為はカンボジアでは日常茶飯事で、もはや不正と考えていないフシすらある。
そして、受験生がここまで学歴を重視する背景にはこの国の企業の多くが外資系である事、縁故採用が盛んな事も関係しているだろう。多くの外資系企業において必要なのは働く上での能力より学歴で、それがキャリアのスタートを大きく左右し、個々の能力とは別の価値を決める。確かに能力を測るバロメーターの1つにはなり得るが、不正で手に入れられた学歴では企業が雇用後に後悔しても時既に遅し、だ。カンボジア人社会では、数ヶ月働いただけでも立派なキャリアとして次の就職活動に活かせる。巷に溢れかえる「無能力社会人」が、社会全体の労働の質に悪影響を与えているのは間違いない。
教育改革を補う国民一人一人の意識改革が必要
今一度、カンボジア国民一人一人が高校卒業資格試験を行う意味、そして教育そのものについて考え直すべきではないか。学校に行ってクラスの中で学ぶのは、計算の答えを勉強するためではない。それを通して答えを導くプロセスを学び、友人と学び舎を共にして協調性と我慢強さを学ぶのだ。学校で学ぶ中で本当に大切な事は教科書には載っていない。高校卒業資格試験で不正をする多くの受験者は10年以上も学校で何を学んできたのだろうか、そしてその不正を快く受け入れる教育者は一体何なのだろうかと想うとあまりにも悲しい。
今年の資格試験を前に、貧しい農村出身の受験者は会場付近の宿泊費値上げを恐れている。信じがたい事に、農村部から地方都市に出る受験生に対して、宿主が特別高い宿泊費を求めているのだ。教育改革は次世代がより豊かに過ごすためのカンボジア政府肝入の改革だが、この国の教育の現状を考えれば当事者だけが痛みを抱えるのはあまりにも厳しい仕打ちだ。社会全体の痛みとして受け止め、全国民が共通の認識とビジョンを持って次世代を作っていく事が必要となる。社会の根幹部分である教育がこの国の誇りとなる日が来る事を願って止まない。
一方で、職人仕事いわゆるブルーカラーを軽視する風潮も根強い。日本でも現在ブルーカラーに代わるホワイトカラーの台頭による問題があるが、カンボジアが抱える問題は日本のそれとは根本的に違う。日本は戦中・戦後、ブルーカラーが経済成長に大きく寄与し、現在においても世界でも類を見ないほど高いレベルを維持している。しかし、カンボジアのブルーカラーの仕事の質は最低で、責任感もない。昨今、土地の売買や金融業等で巨万の富を得た新興成金が多く生まれているが、彼らや無能力社会人の意識もブルーカラー軽視の風潮を強めているだろう。長い目でこの国の成長を考えるなら、国の礎であるブルーカラーのレベル向上は必要不可欠であり、育成のための専門学校の設立等が急がれる。