//バレンタインデーと若者文化 成長と自己表現

バレンタインデーと若者文化 成長と自己表現

バレンタインデーは「一年で一番危険な日」なのか?

2月14日は言わずと知れたバレンタインデーであった。この日の由来はここでは割愛するとして、急速な多文化の流入を前向きに捉えるカンボジア人気質も相まって、若者を中心に大いに盛り上がっていたようだ。日本もそうであるように、外国の文化風習というのは時として本来のものとはかけ離れた形で伝えられるものだが、この国も例外ではない。カンボジアのバレンタインデーはその最たるものであり、世界的に著名な米国の新聞ワシントン・ポスト紙も「一年で最も危険な日」と伝えている。何が危険なのか。それは女子の貞操にほかならない。

 

夜の街に出て感じた違和感。

カンボジアは今、急速な経済成長真只中であり日々国民は生活レベルの向上を実感している。外国からの文化も寛容に取り入れ、近年クリスマスや西暦正月等も若者の間では重要な年中行事に数えられるようになっている。その中でバレンタインデーを「初夜の日」と勘違いして理解している若者も多い。実際プノンペンデーの夜、街に出て取材をすると、驚きと違和感を覚えた。見るからに浮かれた、欲望に純情な若者が多く目に留まったためだ。特に独立記念塔周辺にはバラの花やぬいぐるみを売る屋台が集結し、車道にはみ出しつつ商売に励んでいた。そして、それを買い求めるカップルもまた欲にまみれていた。さっさとプレゼントを買って事に至りたい男子、眼の前のぬいぐるみと引き換えに夜をともにする事を許す女子。三者の欲望が絶妙なバランスで成り立つ奇妙な光景だった。目にしたものが全てではないが、「一年で最も危険な日」との見出しは、的を射ているように感じた。

 

生活レベルの向上と「やっている」感に浸る若者たち

バレンタインデーのように、カンボジアの若者文化は急速に発展してきており、良い面、悪い面が徐々に見え始めている。その中でバレンタインデーは悪い面の筆頭だろう。若者文化発展の要因が経済成長である事は間違いなく、文化を牽引している者は中間層以上の若者たちだ。しかし、彼らの多くは何故所得が増え、何故生活レベルが向上しているのか理解しているだろうか。所得には実際に労働して得られる所得と、不労所得があるが、新たに中間層入りする若者の所得は家族や親戚の持つ不労所得からくるもので、実際に自分の力で満足な所得を得ている者は少ない。職場や学校では、理想と現実のギャップにストレスを抱えているのではないだろうか。若者たちの間では今、「やっている」感の演出が流行りだ。少々わかりにくい表現だが、文化祭や体育祭のような所謂「ノリ」を演出する事だと考えれば分かりやすい。彼らは「やっている」感の演出に余念がない。

 

つながりを求め安易な自己表現に走る

そんな若者の「やっている」感の演出に一役買っているのがFacebook等のSNSで、若者を中心に利用者が急速に増加している。いわゆる格安スマートフォンの普及に伴い、インターネット上のコンテンツを利用する若者が増えた事によるものだが、インターネット= Facebookの様な感覚で利用しているものも多い。スマートフォン所有者はほぼ100%Facebookアカウントを持っていると考えても良いだろう。個々のホームページの普及期にカンボジアはまだ情報インフラの整備が遅れており、整い始めた段階と同時期に普及したFacebookがカンボジア国内における情報ヒエラルキーの頂点に立っていると言っても過言ではなく、国民にとってFacebookは欠かせない情報プラットホームとなっている。

そして、Facebook上での情報のやり取りが生活の一部になるにつれて、日常生活を公開し、自己を表現する事にも活発になってきた。今まで自己を表現する、他人に自分を見てもらって評価を得るという事が少なかった若者たちにとって、他人からの意見を直接得られるのはそれぞれの満足感・充実感につながる重要な行為なのだろう。私自身のFacebookにもカンボジアの若者からの投稿が流れてくるが、ヤシの木の下でサトウキビジュースを飲んでいるだけの写真に、数百の「いいね」がされていて驚愕する事がある。このように、若者の間では、日常を公開して友達からの「いいね」を得る事が生活の一部として定着している。

 

「やっている」感ではなく、本当の意味で「やる」社会構造を願う。

近年、一般参加型イベントが多く開催されている事も若者の「やっている」感を表現したいという感情を上手く捉えたものだと言える。バレンタインデーにもカップルランというチャリティーイベントが開かれ、1,000人を超える若者が参加した。少額の参加料を払い、参加した証である揃いのTシャツを受け取る。彼らは参加できる自分、チャリティーで良い事をしている自分をSNS上でアピールし、「やっている」感に浸る。しかし、このような表現がいずれ破綻をきたす事は想像に容易い。その時、若者に何が残っているのか。

この「やっている」感から実際に「やる」社会に変えていくためには、カンボジアの社会構造そのものを見直さなければならない。演出された個人ではなく、実際に成果を出し、それに見合った報酬が得られる社会に変えて行く必要がある。当たり前の事だが、頑張った若者が頑張った分だけ評価されるような社会構造になる事を願う。

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