//現場の医師に聞く、救急医療の今とこれから。

現場の医師に聞く、救急医療の今とこれから。

中国正月、交通事故死亡者が増加。

 カンボジアでも、多くの国民が中国正月を祝う。正月期間中、とりわけ週末には多くの国民が休暇を取り国内旅行を楽しんだ。しかし、その一方で交通事故のニュースが伝わらない日は無く、中国正月期間だけで54件の交通事故が発生し、37人の尊い命が失われた。件数自体は昨年から6件減少したが、死者数は5人増えた。連休前にサムダッチ・フンセン首相初め関係省庁の大臣達が交通事故に気をつけるよう国民に注意を促していたが、今年も死亡事故を減らす事は出来なかった。
 近年の急速な発展に比例する形で増加する交通事故を予防するため、警察は交通違反者と危険運転者の取り締まりを強化している。加えて、車両の管理を行う公共事業運輸省もヘルメットの着用を促す啓蒙活動を全国的に展開するなどして被害を最小限にとどめるための活動も行っている。しかし、日本も過去そうであった様に、急速に発展する国で交通事故を減少させるのは非常に難しい。
 そんな日々増え続ける交通事故に歯がゆい想いで日々向き合っている人たちがいる。それは救急医療に携わる人々である。非常に多忙な中国正月を明けた救急医に話を聞いた。

受け入れるだけではなく、自ら救いに行く姿勢。

 国立カルメット病院内に拠点を構えるカンボジア最大規模の救急救命室(ER)で17年間救急医療に携わってきた救急部部長チョー・ナリット医師は交通事故が増加している事をとても重大な問題であると語る。
 ERでは受け入れ患者の約7割を交通事故の負傷者が占めており、減少の兆しが見えていない。しかし、ERが患者の受け入れに徹している訳ではないとナリット医師は言う。保健省は、全国の医療機関、特に地方の拠点医療機関で、連休には医師と看護師などの医療スタッフを十分に確保し負傷者の発生に備えている。また外傷を負った負傷者に対応する為の輸血用血液も事前に十分に用意させると言う。さらに、重傷患者が地方からプノンペンへ救急搬送される事態に備えて救急車を常時運用できる状態に待機させ患者の様態に合わせ、適切な処置が受けられるよう全体が連携して体制を整えている。
 患者の受け入れを待つだけの受け身になりがちな医療現場がこのように積極的に行動を起こす背景には、現場の今日に至る成長が大きく関係している。

救急医療の発展と共に歩んだ17年。

 ER発足初期の段階から救急医として勤務してきたナリット医師にその経歴とERの今日に至る歩みを聞いた。
 ポルポト政権下で病気に罹った母が満足に治療されず、病状が悪化して行く様を見て医療の道に進む事を決意した若き日のナリット医師が国立健康保健大学を卒業したのが1990年。翌1991年に麻酔医としてカルメット病院に勤務する事になるが、当時のカンボジアにはERは存在していなかった。カルメット病院にカンボジア初のERが発足したのは1997年のことで、フランス人医師の指揮の下にカンボジア人医師と看護師を配する形でのスタートだった。そんなERにナリット医師が加わったのは2002年のこと、麻酔医としてERと関わる中で、幅広い知識と専門的技術で患者の命と向き合う救急医療に心を惹かれた。ナリット医師がERに入って2年後の2004年、それまで患者をただ待つだけだったERに転機が訪れる。日本のODA支援でカルメット病院も含めたプノンペンの公立病院に救急車が配置され、後に同病院内に交通事故など緊急通報に対応する公立119番中央指令室が設置された。その結果、それまで関わる事の出来なかった、交通事故や急病人発生の現場に直接救急車を出動させ、オールラウンドな救命対応が可能になった。
 しかし、2004年当時は訓練も受けず機材も持たない民間「救急車」がケガ人を運んで法外な料金を要求するケースが多かったため、公立救急車が到着しても搬送をためらう人が多かった。また、119番に電話すると交通事故は無料搬送という保健省の方針も国民に知られていなかった。しかし日本のNGOサイド・バイ・サイド・インターナショナルなど、各方面によって、国立病院への救急車の寄贈や指令室強化・救急隊訓練事業も実施され、公立救急車の運用に関する国民の認識も高まっていった。2010年の水祭りで発生した将棋倒し事故の際には、負傷者に「日本の救急車が来るから頑張れ」と励ました警察官もいたという。
 そして2007年には、フランス人医師が常駐から外れ完全にオールカンボジア人体制のERが発足した。2018年現在は10人の救急医と救急医療専門看護師が二班二交代制で24時間待機し毎日平均80人程の患者を受け入れている。

命と向き合う責任を背負って日々患者と向きあう。

 発足から約20年で大きく成長したER。日々様々な患者を受け入れるERだが、ナリット医師とチームにとって特に深く印象に残っている出来事があると言う。それは、2009年の新型インフルエンザH1N1型が世界中で大流行した時の事だ。カンボジアでも感染者が発見され、ERチームがその患者を受け入れた。患者は二次感染を防ぐ為に患者は隔離病棟へ移した後に治療が続けられた。しかし、非常に感染力が強い新型インフルエンザの患者を受け入れた事が知れると、病院関係者ですらERを避けるようになった。そんな中で、既に感染症対策について学んでいたナリット医師はERの医師と看護師を指揮して、冷静に対応でき治療を続ける事が出来た。その後患者は無事に回復し退院、二次感染も起こらなかった。命と向き合うと言う責任をERに所属する全員が共有し、共に戦った結果だった。

カンボジア救急医療の将来の為に

 ナリット医師はカンボジアのERの歴史と共に、救命の最前線で17年間積み重ねてきた経験を元に、カンボジアの救急医療全体のこれからを見据えて2つの事が重要だと考えている。
 一つは、救急車の体制拡充と運用の効率化だ。ナリット医師は救急医療にはER以前のプレホスピタル(病院前)体制の確立も非常に重要という考え方を持っており、事故や急病人発生の現場からERまでを如何に迅速に結び効率よく患者を治療するかと言う事が、これからも継続した課題だと言う。カンボジアの公立医療機関で活動している救急車は、これまで日本、近年は中国などからも寄贈され、一見足りているように見える。しかし、運用の効率化、救急隊員・ERの育成等のソフト面が今後も非常に重要になってくると指摘する。最近は、日本の国立国際医療研究センターも育成事業を実施している。
 そして、もう一つが救急医療に従事する専門家の育成だ。ナリット医師は病院勤務の傍ら、国立健康科学大学で教鞭を振るい救急専門医を自ら生み出している。10人程だった学生も今では毎年30人程に増え、中には既に同僚として共に働く教え子も出てきていると言う。そしてERが医師一人では成り立たないチーム医療であると言う認識も重要だと言う。特に救急専門看護師も大切なメンバーであり、現在カルメット病院のERでは約40人の救急専門看護師が勤務しているが今後の増員は必要不可欠だと言う。
 
 ナリット医師が将来にむけてこのように考える背景には、カンボジアが日進月歩で成長し、国が経済的に豊かになるに連れ、国民一人一人の命がこれまで以上に尊い物になってきていることが関係している。カンボジア政府はサムダッチ・フンセン首相の指導のもと、ここ数ヶ月の間に労働者の医療保険制度を大きく見直し医療費負担を大幅に軽減した。それによって多くの労働者がこれまで思うように受診できなかった医療機関を受診できる様になり、ERを受診する患者も前月比でも増加を示している。その他にも、国立病院として貧困者医療にも対応している。カンボジアの医療は様々な課題に直面しているが、国民すべてが進歩する医療の恩恵を受けられるよう、一人でも多くの命が救われるよう、これからも救急医療分野において貢献してきたいとナリット医師は考えている。

国立カルメット病院
病床数635、165名の専門医と1400名近いスタッフが勤務するカンボジア を代表する総合病院。大学病院としても機能しており、24人の教授の下、日々 様々な研究が行われている。救急搬送(119 番)の受理台も設置されている。
TEL : 023-426-948 TEL/FAX : 023-723-848 E-mail : calmett@online.com.kh

取材対象者
国立カルメット病院救急部部長 医師チョー・ナリット( Dr. Chhor Nareth)

取材協力
NGOサイドバイサイド・インターナショナル 佐々木明子