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与党カンボジア人民党党首チア・シム氏が逝去

 6月8日午後3時45分、与党カンボジア人民党(CPP)の党首を務めるチア・シム氏が逝去された。82歳だった。近年は、高齢に伴う体調の悪化と持病の療養のためほとんど公の場所に姿を見せる事はなく、療養中の自宅で亡くなられた。
 チア・シム氏はフン・セン首相、ヘン・サムリン国民議会議長とともに長年にわたってCPPを指導してきた人物で、上院議会議長も務めていた。訃報を受けて、プノンペン市内にあるチア・シム氏の自宅にはその日のうちにフン・セン首相をはじめ政財界から多くの人が弔問した。また、フン・セン首相は同日夜に、「6月19日にシハモニ国王陛下臨席のもとチア・シム氏の国葬を執り行う」と通達を出し、国を上げて喪に服すとした。国葬までの期間中もチア・シム氏の自宅には連日多くの人々が弔問し、その中には野党救国党のサム・レンシー氏や、フンシンペック党指導部の姿も見えた。
 迎えた19日の国葬当日も、チア・シム氏の自宅前から葬儀会場となったボトム寺院に向かう沿道には大勢の人が集まり、別れを惜しんだ。特にチア・シム氏と同年代の高齢の方の中には、最後の別れに涙を流して悲しむ人も多かった。国葬会場では、シハモニ国王陛下、皇太后陛下臨席のもと政財界、各国大使等が参列し、王宮関係の仏教行事等に参加する高僧が供養を執り行った。

チア・シム氏の生涯と近代カンボジア動乱

 チア・シム氏は、1932年フランス統治時代にスヴァイリエン州で生まれた。1951年、宗主国フランスからの独立を願うクメール・イサラク運動に参加し、徐々に政界に進出していく。1954年には後にクメール・ルージュとなるクメール民族革命党に所属し、出身地スヴァイリエン州の責任者も務めている。その後粛清が激しさを増すクメール・ルージュを離れ、ベトナムに逃れる。
 1978年12月2日に、現在まで続く人民党御三家と呼ばれるフン・セン現首相、ヘン・サムリン現国民議会議長とともにカンボジア救国民族統一戦線を組織。同年12月25日クメール・ルージュ追放のためにベトナム軍と挙兵、翌年1月7日にはプノンペンを奪回した。クメール・ルージュ政権は事実上追放となり、奪回から僅か3日後にはカンプチア人民共和国の建国を宣言。内務大臣に就任し、党内序列4位となる。その後、フン・セン現首相率いる改革派と対立しつつも、国名をカンボジア国に変更する等して改革派の意見を取り入れてバランスを保ち、1991年10月17日には党名を現在まで続くカンボジア人民党(CPP)に改名した。10月23日にはパリ和平協定が調印され、安定化への動きの中で暫定的に国家元首を務めた。そして1993年9月24日には新憲法が公布され、現在に続くカンボジア王国が建国された。チア・シム氏は下院に当たる国民議会議長に選出された他、逝去されるその時まで上院議長を務める等国政に欠かせない重要なポストに就任し続けてきた。

フン・セン首相が党首に就任し新体制を築く

 カンボジア王国の最重要人物の一人だったチア・シム氏が逝去された今、CPPとカンボジア政府は次の時代を見据えた動きを既に開始している。逝去翌日の9日には上院議会を召集、新たな議長にサイ・チョン氏を選出した。国葬翌日の20日には党大会を開催し、党首と副党首を選出する党内選挙を実施。名誉党首のヘン・サムリン氏はそのままに、事前情報の通り新党首にフン・セン首相、新副党首はソー・ケーン内務大臣、サイ・チョン上院議長をそれぞれ選出した。
 2013年の国民議会選挙で議席を大きく減らしたCPPは、次回選挙に向けてフン・セン首相指導のもと党内及び政府改革を行なって国民生活の向上に務めていると伝えられ、既に一部の分野では成果をあげている。共に歩んだ党首の逝去が、今後どのような改革をカンボジアにもたらすのか。逝去されたチア・シム氏が悲しむような結果を招かぬよう、国民生活の向上のため一層の努力を期待したい。

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