先日あることでスタッフを叱った。主な原因は「ありがとう」の一言が無かっただけなのだが、別に「ありがとう」と言ってほしくて叱ったのではない。感謝の気持ち、相手に対するリスペクトの気持ちはどこの国であろうと人間関係を構築していく上で重要な事だと考えていたからである。
その昔、優しさとは何か考えたことがあった。その時私が出した答えは相性だった。例えば以前にこういう事があった。
私が誰かのために何かをしてあげたとする。しかしその相手は特に何も感じてはいなかった。しかし一方で同じ相手に自分では何気なくした事に対して、思いもよらない感謝をされたりもする。つまり自分の思う優しさと相手の思う優しさが一致して初めて成り立つのではないかと考えたのである。この優しさに対する考えが不一致だと有難迷惑だったり優しさの押し売りになったりするのだと思う。
今回のスタッフとの事も考えの不一致だったのだろうか。と考えた。もしそうだとしたら叱ってしまった事は失敗だったのかもしれない。
一般的に日本人は余計な軋轢を生まないように協調し、「ありがとう」や「ごめんなさい」を多用すると言われる。この日本人的価値観を押し付けてしまったのだろうか、リスペクトが足りなかったのは私の方だったのではないか、と考えさせられた。
ただ、私の中では間違いなく「ありがとう」とひとこと言ってもらった方が、また次何かあった時にも気持ちよく協力してあげられると思うし、感謝されることの喜びは万国共通ではないのだろうか。もしそうでないとしても感謝される喜びを知るに越したことはないと思うのだが、その価値観も押し付けずそうではない考えを尊重した方が良いのだろうか。考えれば考えるほど何が正しいのか分からなくなる。
管子の言葉で「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という言葉がある。日本では「衣食足りて礼節を知る」の方が一般的に知られているが、つまり人は生活に余裕ができて、初めて礼儀や節度をわきまえられるようになるという事である。
もしこの言葉をカンボジアに当てはめて考えるとしたら、経済成長に伴い平均収入も上がってきていた今こそ衣食が足りてきたという事、つまりこれから礼節を知っていくという事になる。だとしたら今は理解されなくても伝え続けていく事でいつか理解してもらえる日が来るのかもしれない。
すぐに変わるものではないからこそ昨日よりも今日、今日よりも明日と日進月歩で成長していく事を信じ、伝え続けていこうと思う。