地元紙などを翻訳して掲載する日系メディアが増えてきた。それ自体はカンボジアのニュースを知れるのでとても素晴らしい事である。しかし元の記事をそのまま翻訳し、何の精査もなく掲載するのはいかがなものかと思う事があった。
それは先日報じられたレイプ事件で、被害者女性の実名を報じているというものだ。日本ではまず考えられない事である。確かに名前だけで個人を特定するのは難しいだろうし、ましてや外国語での掲載なのでなおさらだろう。
しかし、それでもいっさい非の無い被害者女性の名前がレイプ事件の記事と共に一生残る可能性があるのである。まさに二次被害である。メディアとして被害者女性の名前を報じる意義はあるのだろうか。ソース元が実名を報じていたので、恐らくそれをそのまま翻訳しただけなのだろう。だから責任はないのだろうか?
少し前に日本で某大手IT会社が運営していたキュレーションメディアがソース元の記事を根拠が不明確なまま掲載した事が問題となった事があったが、今回の件も同じではないだろうか。
カンボジアのメディアは日本ではモザイク処理をするであろう事故現場などを未処理のまま報じていた時期があったが、最近ではモザイク処理を施すところも増えはじめるなど倫理感に変化が見え始めている。
実名報道という点では、日本でも未成年者の犯罪において、事件の重大さによっては実名を報道するべきか賛否が分かれる事もあったり、メディアの表現の自由の確保という意見もあるが、今回の件も表現の自由という一言で片づけてしまって良いのだろうか。カンボジアは日本よりも貞操観念が根強く残っており、被害者女性の今後の人生という点からも今回の報道内容には罪深さを感じる。
今回は実名報道の是非についてだが、現状のただ翻訳して掲載というスタイルでは誤報という場合もあり得る。誤報記事を二次的、三次的に拡散すればメディアそのものの信頼性が揺らいでしまう。特にカンボジアはFacebookの影響力が絶大である一方、メディアリテラシーが成長しきれていない印象があり、報じる側はその分記事に対する責任を負わなければならないと思っている。
とはいえ、キュレ―ションメディア同様に翻訳転載も便利で読者にとっては有り難いサービスである事は間違いない。だからこそ我々も含めたメディアは自分たちの負っている責任を再認識するべきであり、読者もメディアリテラシーを養っていかなければならない。