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今を知るためには昔を知ることから始める。

 先月は、手束耕治氏が長きにわたりカンボジアで貢献し、また仏教の失われた時代を埋めるべく尽力され外務大臣表彰をされましたが、歴史の中に日本が初めてPKO派遣としてカンボジアの総選挙をサポートするために、文民警察として警察官がアンピルに着任し、一名が殉職したことは余り知られていないのではないか?
 23年前の1993年5月4日UNTACの各国メンバーは会議の帰りに正体不明の武装グループに襲撃を受け、その中で5人の文民警察官の一人だった高田晴行氏が銃撃を受け亡くなった。当時、派遣要項にポル・ポト派との停戦合意の中派遣をした日本政府は、ポル・ポト派の関与を否定したこともあり、停戦合意は崩れていないとの立場のなか任務続行をした。
 しかし、会議に向かう車中ですれ違う車にポル・ポト派の兵士が銃を持ち異様な光景に違和感を覚え、その帰りに襲撃を受けたのだから、当事者達は確信に近い思いでポル・ポト派と思ったに違いない。その後、隊員たちに発言の機会も与えられることなく、多くを語ることもなく総選挙を迎え任務を遂行した。
 しかし、尊い命を奪われカンボジアの平和を構築するために、過酷な任務についた隊員たちはやり場のない憤りを今も心に持ち続けているだろうし、停戦合意がなされているのだからと言う政府の読みの甘さ、起きてしまった悲劇に対しての態度には、当時の世界貢献と言う日本の立場も考えるとどの部分を取ってもキツイ選択であっただろうことは読み取れる。
 アンピルには「TAKATA HARUYUKI school」と言う学校がある。遺族が建てたもので、今でも生徒たちは高田はカンボジアの為に亡くなったと自分たちが学ぶ学校の名前の由来を知っている。
 カンボジアで仕事をしている日本人でこの事件を覚えている人は殆ど居ないだろう。カンボジア人の中にはポル・ポト時代の話を酒の席で笑いながら話す人も目にするが、私たちが今仕事が出来るのも、こうした大きな犠牲を払いカンボジアの行く末に貢献した人たちが居たことを忘れてはいけないし、文民警察官の方たちが守った今のカンボジアをより良くするために、23年経った今、私たちは考えなくてはいけないのではないか?!
 建設中のコンドミニアムの上ばかり見るのではなく、足元の地面も見ないと先人たちに顔向け出来ず、心に刻むことで誇りとやりがいを感じなければならないと思う。

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